共働き育児家庭 実際に義母と同居をして感じた本当のメリットとデメリット

2022年4月4日

子育て

義母との生活が始まるまで・・・

私は大学を卒業した後、数年は夜の仕事を行いつつ専門スクールに通い、無事に専門スクールで学んだ事を生かして就職することが出来ました。
転職をしたりしましたが、現在も育児をしながら会社員として働いています。

大学時代はアパレルショップでアルバイトをし、大学の友人とお酒を飲みに行くことや、高校時代の友人とも交流を続け、24時間では足りないと感じながらも充実した日々を過ごしていました。
どこにでもいるような普通の大学生活ですが、私の通っていた大学は特殊な学科だった事から、課題が非常に多いうえに1つの課題にとても時間がかかる為、学業に専念している同級生の友人はアルバイトする時間もないと嘆いていました。
3日は徹夜で課題を行い何とか課題を提出し、ギリギリで卒業することが出来ました。
思えばこの頃から自身のキャパを超えそうな無理のある生活に、体も心持ちも慣れてしまっていたのかもしれません。

就職してから数年後、現在の旦那と出会いすぐに同棲をはじめ、2年後に婚姻届を提出しました。結婚式を行った3か月後妊娠が発覚し、私の中で思い描いていた理想の人生プランが現実に起こっていることに自身の運の良さや、やっぱり自分ならうまく世渡りが出来ると思っていた!今までもこれからも。と満足していたのを覚えています。

無事上の子の出産が終わり、大した保育活動もしないまま、その時に住んでいた家から近い保育園に入園が決まり、毎日が楽しい生活を送れるようにと願って子供が気に入っていたキャラクターの保育園グッズを購入したり、作ったりしながら少しずつ入園準備をして過ごしていました。そして、1年の育児休暇を終え私は職場に復帰をしました。
自宅から会社までは1時間ほどの通勤時間がかかるため、朝のお見送りや帰りのお迎えなど、定期的なお弁当の日など、自身のメイクや髪の毛のセットや、洋服などがおろそかになるようになることも増え、夕飯の支度やお風呂のタイミングなどうまく回らなくなるなど、保育園への通園が始まってから、それまで当たり前に行っていた日常生活に負担がかかるようになり、会社の転職を考えるようになりました。

「自分なら大丈夫。転職もうまくいってこのキツイ生活は終わる。」と信じて。

子供の初めてのママという言葉に感動し、離乳食がうまくいかない、ファーストシューズはどれがいいか、初めてのヘアカットはどこで切ろうか、誕生日は何をしようか、どんな洋服を着せようか、咳が止まらなくて夜中に病院に電話したり、怒らない育児を試したり、無理な早期教育をしたり、悩みながらもまずは経験させてみようと色々と試したり、断念したり、落ち込んだり、不安になったりを繰り返し、毎日毎日この子のために自分は何が出来るだろうと考え、忙しない日々を必死に過ごしていました。

そんな忙しい生活をしていた中で旦那が、「家を買おうか」と提案をしてきました。
マイホームは私の夢でもあり、2人馬力なら非現実ではないとあっという間に購入をすることが決まりました。
その後、地域や住宅情報を絞り込み、いよいよここに決めたというタイミングで2人目の妊娠が発覚しました。壁紙やキッチンの仕様などを決めたり、自身の妊娠のマタニティートラブルが重なりそれなりに大変でしたが、これから生まれてくる子供と上の子、旦那との明るくて楽しい4人の生活が待っていると思うと頑張れましたし、楽しく過ごす事が出来ました。
このソファーを置いて、子供部屋はここで将来こんなベッドを置きたいな。キッチン用品はこれで揃えたいな。予算と相談しながら納得いくものを時間をかけて選んで目星をつけていました。
そんな中、いよいよ2人目の出産。出産では色々と大変なこともありましたが無事に退院し、引っ越し先に近い保育園も決まり、家具も一通り購入し運送日を調整し、さぁいよいよ引っ越しだ!というタイミングで、まさかの義父母が熟年離婚をしたという連絡がありました。

当時私は、産後無理をしてしまった為に回復があまり良くなく、ホルモンバランスが崩れていたこともあり、常に情緒が不安定な時期でした。2人の子供を育てることに必死になっていたので、正直義父母が離婚をしようがそちらで解決してくればいいと、どうでも良いと思っていました。義父母が今住んでいる家も義母が住むだろうし、今更こちらには何も影響はないだろうと楽観的に考えていました。

しかし、楽観的に考えていた私の予想とは反して義父は、家を売る手続きを進めていました。そして手続きが完了した後に、北にある田舎に戻ってしまったのです。
なぜ売ってしまったのかは今となっては分かりません。
売ってしまった家は、築年数がたっており特に家や庭の手入れをしておらず、外壁やトイレやふろ場、キッチンとかなりガタが来ている状態だったこともあり、雀の涙程度にしかならなかったので、財産分与も大した金額にはならなかったと聞いています。
わずかなお金をもって義母は一人になってしまいました。
義母には兄が2人います。義母の母は他界していることもあって、既に義母の実家は義母の一番上の兄が所有し、現在は孫世代まで一緒に住んでいることもあり、義母自身は実家に気軽に頼れる人もいませんでした。

とは言っても、ずっと専業主婦をやってきたわけではなく、義母自身まだ若く健康の為、現在に至るまで同じ会社で何十年も正社員として働いています。
そういった経緯から、家がなくなっても義母は会社の近くの賃貸を借りるだろう。とぼんやりと考えていました。
それに万が一何かあった場合でも、このタイミングで幼児と乳児と産後間もない私がいる長男の家庭よりも、まずは旦那の独身の弟か専業主婦の妹に頼ることになるだろうとも考えていました。

こんなバタバタしている状況の中でも私自身は、転職を考えていたため育児休暇を終える前に退職をし、満足な睡眠をとれない中必死に新居の近くにある会社を探し、乳児の一時預かりをお願いし、なんとか3回の面接を終え、無事に転職先が決まり自宅からも保育園からも比較的近い職場に転職することが出来ました。
今までの、日常生活に負担がかかりすぎる日にピリオドを打てる事に安堵しました。
しかし、私が楽しみにしていた幸せな夢の4人の生活は、本当に夢となることになる出来事がありました。

義母から旦那に連絡があったのです。
「一緒に住みたい。」

聞いてみると、独身だった弟が結婚を意識している人と同棲を始めたそうで一緒に住むことは難しく、妹は義母が寝る部屋が無いうえに荷物を置く場所も取れないという事だったそうです。
そして、どちらも我が家には頼らせないようにと機転を利かせてくれたらしく、会社や今までの家の近くの賃貸に住むことを提案してきたそうですが、義母は今更一人で暮らすのは不安だし、もうすぐ家を出ないといけないから物件探しが間に合わない。少しの期間でも一緒に住みたいというのです。

新居に、家族以外の誰かが住むのはとても嫌だった為何度も旦那を通して断りました。
旦那は、最初から最後まで私の意見に賛同してくれていましたが、義母は「働いているので自分の食費や光熱費、雑費代は出す」という事でしたし、義母の仕事が休みの時には家の事をやってもらえれるし、少しでも空いた時間が増えればその分子供との時間も増えると考え私は、仕方なく子供部屋にする予定だった部屋の1つを義母の部屋として使用することを了承しました。

義母の「少しの期間でも一緒に住みたい」という「少しの期間」という言葉をそのまま受け取り、【住むところが決まったら出ていくだろう、期間限定なら我慢をすればいい。夢だった新居での4人生活は無理だったけど、今までもイレギュラーをこなしてきた。一時の辛抱。自分なら大丈夫。】
そう私は、この時にも自分に言い聞かせていました。

義母との生活を通して見えてきた部分

翌週に引っ越しを控えている中、私たちの荷造りは一通り完了していたので、土日の旦那が休みの日を利用し義母の家に荷造りの手伝いをしに行きました。

ここでまさかの光景を目にしました。

私の知っている義父母の家の室内がそのまま変わらず残っていました。そう、義母は家を出ていくと決まってからも引っ越しの準備をしていませんでした。
これにはさすがに旦那も呆れて「なぜ準備をしていなかったのか」と問うと、「引っ越し業者が来てやってくれるのでしょ?」と返事が。
何十年も使用している、家具や家電、使用出るかさえ分からない古い大きなマッサージ機、その他家中すべての物を、引っ越し業者に新居に運ばせる予定だったのです。
そして、私か旦那が手配してくれるだろう、もしくは途中で寄って荷物を運ぶのだろうと、引っ越し業者の手配もしていなかったのです。
新居にはすでに大型家具や寝具と家電を購入し、引っ越しの日に届くよう手配をしている。
引っ越し業者はうちの分で契約をしているからここには来ないと説明をし、やっと自身の重大なミスに気付いていました。
その日中に引っ越し業者に連絡をして何とか予約を取ることができました。
不要な衣類や雑貨類などを分別し、翌日リサイクル業者に不要な家具や家電、衣類や雑貨類を引き取ってもらう事が出来ました。
その後も、義母が仕事の日には乳児を抱えて義母の家に行き、無理をしない程度に義母の荷造りをしていました。義母も心を入れ替えたのか、帰宅してからはせっせと荷造りをしていたみたいホッとしていたのを覚えています。

義母の家に行った日の帰りに細かい雑貨やキッチン用品などお気に入りで揃える予定でしたが、こんなことがあり行く時間も無くなってしまったので、仕方なく今まで使用していた物でとりあえず過ごすことにしました。しかし、今でもふと思うことがあります。
「新しいキッチン用品でスタートしたかった。」

些細な事なのかもしれません。最終的には自分で決めた事です。
しかし、みんなのご飯を作る為の道具を買う事さえ、後回しにしたことが今でもわだかまりとして残っているのです。

引っ越し当日、私の親に子供たちを預け、拭き掃除をしながら業者の方にどこに何を置くなど説明をしていました。
いよいよキッチンに新しい大きな冷蔵庫や食器棚が運ばれました。今私がもってきたキッチン用品が入っている段ボールよりもはるかに大きい段ボールがおいてありました。
段ボールには「台所」と書かれています。
義母のキッチン用品でした。とは言っても一時的に住むだけだし、引っ越し先が決まるまでこの状態で自室においておくだろうとキッチンから少し離れたところに移動しておきました。
翌日は荷ほどきで1日が終わり何とか暮らせる位まで整いました。
次の日は平日でしたが有休をとった義母に留守番をお願いし、近くのスーパーやドラッグストア、コンビニや郵便局と銀行、公園やホームセンターの位置を調べるために子供達を連れて外出をしました。
新しい場所ということもあり子供は大喜びでした。危ない道や安全な道を見つけたり、私も楽しかったので長い事外にいたと思います。
散歩のときに見つけたデリバリー系のピザ屋で夕飯用のピザを購入して家路につきました。

帰宅して直ぐに台所の違和感に気づきました。
新しい食器棚を開けるとそこには、本来まだほとんど入っていないスカスカの棚に
しっかりと古い皿が並べられていたのです。
シンプルで真っ白のスタイリッシュなお皿で揃えたい私の希望とは全く異なる、柄も色もそろっていない皿が重ねられていました。茶渋がついているのか黄ばんだ昔ながらの分厚い湯呑みと、柄があっていない急須。私たちのおしゃれな雑貨屋で購入したコップが逆に場違いなのではと思えるような棚でした。
将かと思い、シンク下を見てみると手入れがされていない包丁が並べられ、まな板は3枚も入っていました。ガス下の引き出しを開けると、そこには鍋やフライパンがぎっしりと積み重ねありました。あまりの現実に気持ちが追いつかなかったのか、この置き方だと一番下のフライパンを使うとき大変じゃん。とこの時思っていました。

私がこだわり抜いたキッチンは義母のお古でいっぱいになっていました。
私はインテリアにこだわりがあります。好きなものに囲まれて過ごしたいから仕事を頑張ってきたのです。涙が出そうでしたがぐっと堪え、少しの期間の我慢だ、義母がいれば子供との時間が増える。頭を切り替えることに専念しました。

そう、義母は善意で行っていたのがわかったからです。
ギリギリまで引っ越し準備をせずに、私に迷惑をかけてしまったことをとても後悔していました。私がいない間に、自宅で何かできることはないかと探し、キッチンが充実していれば私が喜んでくれると考えたのです。
そして私がゆっくり過ごせるようにと洗濯と掃除もしてくれていました。
私に迷惑が掛からないように、寄り添いたいと思っていると感じたのです。

「お母さん、ありがとうございます。」

少し天然だけど、とてもいい義母に恵まれたなと感じた日でした。
とはいっても、フライパンや鍋が劣化で傷だらけになっていたり、まな板が多すぎたので
これは義母に話をして、数個は破棄することになりました。
ゴミ袋にフライパンとまな板を入れた時に心がスっとしましたが、私は自分のこの感情には気づかないふりをしました。

帰宅した旦那は、あれだけこだわっていたキッチンが私好みではなくなっている事に動揺をしていましたが、穏やかな私の表情を見て安堵したのか「母の引っ越しが決まったら入れ替えればいい」と提案しこの一件は終わりました。

一週間が過ぎ、荷ほどきも完了し落ち着いてきたので、そろそろ自炊も始めないと買い物に行き夕飯のレシピを考えている時、そういえば家事はどうやって分担すればいいか話していなかったなと気づきました。

家族がそろったときに家事ってどうする?と話を切り出した際に出来る人とか気になった人がやればいいのでは?と旦那が話してきました。
旦那は、気になったら掃除をしたり、暇なときに洗濯や足りないものをチェックして私が行けなかった時には、仕事の帰りに買い物に行ってくれる人でしたのでそれまで不満に感じたことはありませんでした。
しかし、義母はあの一件以来何もしていないのです。洗濯をしていて思うのですがとにかく着込むことから義母だけで私たち夫婦2人分の量があります。大人4人と子供2人分の洗濯をしている感覚になるのです。
気になったらやるようにしましょうねと、ふんわりとした約束をしてその日は終わってしまいました。それから一か月経過した頃、これ先月分の食費と光熱費、雑費代と封筒を渡してきました。その後義母が自室に戻った後に、家事もやっていなかったので5.6万位はあるだろうと封筒を開けるとそこには一万円札が1枚入っていました。

足りる訳がない。旦那と義母が相談をし、次回からはもう少しもらうことになったという報告をうけました。それから義母は家事を一切しないまま一か月が過ぎ、3万円を渡してきました。私が食事を作っている間に義母は自室にいるか、子供と遊んでいます。
義母がいるため手抜き料理もできず、料理に時間がかかるようになり子供との時間が減り、
義母はよく食べるタイプだった為、食費が大幅に増えていきました。
私が料理をしている間に、子供と楽しく遊んでいる義母を見ながら、「あなたのその役割を私がやりたい。『今日は私が夕飯を作るから、子供達と遊んでね。』どうしてこの言葉が出てこないのだろう。」と考えていました。
嫌味や悪口を一切言わない義母でしたが、物事に興味が薄く気が利かない人だったのです。

そんな生活が気づけば1年、2年と過ぎていました。
私も会社復帰をして疲れ果ててしまった時は、冷凍のパスタやインスタントラーメンで済ませたりするようにもなりましたが、義母はというと自室の掃除とたまに洗濯をするまでにはなっていましたが相変わらず料理はしませんでした。

私が料理や掃除をしている時に子供と遊んでいる義母に対し、私が遊ぶから家事をやってほしいとイライラしたりしていましたが、私がゆっくりと料理をすることが出来るために子供の面倒をみているよという善意が感じられていました。

義母はとても優しく、怒るところも見たことがないほど物腰も柔らかで、色々なことを吸収する時期の子供は、義母の影響からかとても優しい子に育ちました。
私がメインで見ていたら、子供の性格は変わっていたのかもしれません。

本来の私の希望通りに子供との時間を増やすことはできませんでしたが、子供に対してイライラすることも無く、3年が過ぎようとしたあたりから「義母はいつ出ていくのだろう」と思うようになりました。
生活のスケジュールが取れ始めた時に、義母の思いつきのタイミングでお風呂に入られたりすることが増え、子供達も一緒に入れてもらう訳にもいかずお風呂が夜遅くなってしまったり、それによってごはんのタイミングが合わなくなってしまったり、私のスケジュールも狂いはじめ、マイペースで気が利かない上に進んで家事をやらないことに、苛立ちを押さえられなくなり始めていました。
口は出さないが、金も出さない、手も出さない。このまま何か対策をしないとこの人は一生やらないと思い、すべての家事を当番制にすることを提案し、買い物は私たち夫婦が休みの日に行うことに決まり、料理、洗濯、掃除をローテーションで行う事になりました。
これで私も子供との時間を増やせると期待が膨らみました。

当番制を初めて一週間が経ったときに、これからの生活を変えるある事件がありました。

見えていたものと真実。終わりを迎える義母との生活

当番制になり、ちょうど義母が初めての料理担当だった日に、私はどうしても朝早くから夜まで仕事で遠方に行かないといけない予定が入ってしまいました。
料理担当なのに申し訳ないと思いつつ、旦那も会議があった為その日は子供のお迎えも義母にお願いしました。
材料はいろいろな食材をまとめ買いをしておいたので買いに行く必要が無く、あるもので適当でお願いしますと伝え、仕事に向かいました。

思ったよりも仕事が早く切り上げる事が出来て、何とかギリギリ夕ご飯の時間に間に合うことが出来ました。

仕事から帰宅すると義母はキッチンに立ちながらカウンター越しにテレビをみていました。
キッチンカウンターにはおかずが盛られた大きなお皿が1皿置かれていました。
それは2人分ほどの量の緑色の野菜炒めでした。
まだ何か作るだろうと思い、その間に子供たちをお風呂に入れました。お風呂が終わりリビングに戻ったところ食卓に目を落とすと、大皿に盛られた野菜炒めと人数分のごはんがテーブルに並べられ、義母が暗い顔で椅子に座っていました。
「子供たちがうるさくて、お料理がはかどらなかったですよね。すみません。」と謝りましたが、義母は「こちらこそごめんなさい。」と言いほんの少しの野菜とごはんを食べて、自室に行ってしまいました。

言い方がまずく義母を傷つけてしまったのか、とても不安になりました。
今でもあの時の表情を忘れることが出来ません。

帰宅した旦那に事情を話し、子供が寝た後に自室にこもって泣いていた義母を呼んで話すことになりました。
「今までレシピを考えてから買い物に行っていたから、あるもので適当に作ることが出来なかった。めんつゆを使いたかったのに無く、時間も遅かったから買いに行けなかった。」出汁から作る我が家にはめんつゆが無かったのです。
義母自身も共働きで子供を3人育ててきたのですが、とにかく料理が嫌いだったそうです。
共働きを理由にして総菜を買い、あとは簡単なレトルトで乗り越えていたらしく、それでもたまには何か作ってあげたいと、たくさん料理の道具や本を買って何度もチャレンジしようとしたけど、嫌いだからうまくならなかったという事でした。
旦那も義母の料理は、苦手な感じはあったし美味しくはないけど、まずくも無かったと聞いていたので、ごくごく一般的な感じなのだろう位にしか思っていませんでした。

この時の義母の話を聞いて、一向に料理をする気配がなかった理由がわかりました。そしてキッチン用品をたくさん所有していた理由もわかりました。

引っ越しの日に、大きな段ボールでキッチン用品を持ってきたのは、自分が使いこなせなかったから私に使ってほしかったのです。
フッ素の鍋が傷だらけだったのは金属製の菜箸を使っていたからで、鉄のフライパンが錆びていたのは手入れ方法がわからなかったからなのでしょう。この鉄のフライパンに至っては、手入れをして使っていれば義母も喜んでくれたのだろうと、感情に任せて捨てたことをとても悔やみました。
置物がきれいに飾られている棚や、余計なところの掃除をされるのは嫌なのではないのか、いつもてきぱきと家事をやっているから、私のようにのんびりやっていたら迷惑がかかってしまうのではないか、遅いと怒らせて嫌われてしまうのではと考えていたそうです。

毎日料理していれば、普通に考えればわかるし察するだろうという事でも、わからない人は存在すること、それは料理だけではなくお互い毎日顔を合わせている身近な相手の気持ちも同じなのだと改めて気付かされました。
私自身も、義母が悪い人ではないとわかっていたので、私の言い方で傷ついてしまうのではないのか不安でした。
また、共働きで子供が小さいうちは時間も手も足りないという事を同じように共働きを経験したのなら、言わなくてもわかってくれるだろうし言わずとも考えて行動してくれるだろうと、義母に期待をしすぎてしまったことを後悔しました。

義母は、1年経過したあたりから何度か近くの物件情報を見たりはしていたそうです。
良い物件かどうかもわからず、自分で引っ越しの手配もしたことが無い為何から始めていいのかさえ分からず、家具家電も選んでほしかったそうですが、私か旦那に相談をするタイミングをずっと逃していたとも話してくれました。
仕事が終わったらすぐに帰らないと、私に迷惑がかかってしまい嫌われてしまうのではないかと、急いで家に帰宅していたそうです。義母自身の自由な貴重な時間を、子供の面倒に当ててくれていました。
そして、お風呂の時間が遅くなったのにも理由がありました。仕事が休みの日に病院に行ったり、美容室に行ったり、義妹や義弟に会いに行ったりしていて、家にいるときは子供達と遊び、しっかりと体を休ませることが出来ず眠くなることが多くなった為、少し仮眠をとっていたそうです。

おばあちゃんとしては若くても、私の倍の年齢なのだから当然でした。
一緒に住んでいるのだし、家で何もやらないのだから体力余っているだろう思い込み、当たり前の気遣いさえ私は忘れていたのです。
どうしても休みの日に会社に行かないといけないときに、家で何時間も子供を見てくれて、お昼用にカップラーメンを置いておいた時も、カップラーメンじゃ可哀そうだからと近くのお弁当屋でお弁当をデリバリーで頼んで子供達にあげていてくれた事もありました。
子供達の誕生日では家族の時間を過ごしてねと、プレゼントだけ置いて義妹の家に行ったりしていてくれたあの時の感謝の気持ちが、毎日のストレスによって薄れていました。

当番制は廃止しました。

義母が休みの日には体が休めるように、出来るだけ外に出て泥だらけになりながら、子供との時間に集中して今まで以上に目一杯楽しむことにしました。
私たちが外に出れない時は、義母はスーパー銭湯に行きリフレッシュをしたりしていました。
私も疲れてしまった時には夕飯は丼ぶりやオムライスなど時間をかけない適当なものや旦那が作ってくれたりしましたがいつでも美味しい美味しいと義母は沢山食べていました。

そんな日が数か月続いてから、義母は一人の気楽さがよかったのか一人暮らしを望むようになり、引っ越しを進める方向になりました。
私と旦那と義母の休みの日を合わせて、物件の見学に行き、家から徒歩圏内で築年数、家賃、間取り、セキュリティーで申し分ない物件を見つけることが出来ました。
家具や家電は予算に収まる中でも義母が気に入りそうなものを旦那と選び、引っ越しのお祝いとしてサプライズでプレゼントすることにしました。
無事引っ越しも完了し、現在も義母は一人のシングルライフを楽しんでいるようです。

世の中には嫌味ばかりいう義母もいる中、子供を可愛がってくれた義母にはとても感謝しています。歌を歌ったり、昔ながらの遊びや、ごっこ遊び、電車のおもちゃで遊んだり、ただひたすら沢山笑って遊んでくれていました。家事も今と比べると時間をかけて作ることが出来ていましたし、家族でもわかるだろうと思わずに、態度で表すのではなくしっかり言葉で伝えないとすれ違ったままになってしまうと分かったのは、同居を経験したメリットと感じています。私が病気で寝込んでいる時に飲み物を買ってきてくれたり、子供のお迎えをしてくれたりとイレギュラーの事態にも対応してもらえるのは助かりました。

しかし、同居生活はデメリットだらけです。どんなに良い義母でも、嫌いになります。

私の場合では、共働きということで顔を合わせる時間は少ないものの時間に追われているため、自分のペースで家事、育児、日常の生活が出来ないことに大きなストレスを感じました。子供が自分よりも義母に懐いてしまうのではないかと不安もありました。
若い頃からハードな生活をしていたので、ストレスや無理な生活でも耐久はあるかと思っていますが、家事をすべて任せる事も出来ない、すべてこちらからお願いしないと動かない、手伝って欲しい所のポイントがズレていることに苛立ちはじめ、更に過ごす時間を重ねていくと、雑用品の減りが早い、シャワーが長い、声が小さいなど、それまで気にならなかったほんの些細な事でもイライラしてしまったりするようになり、夜中に動悸が出て眠れなくなったりと心の環境がとても悪くなりました。
自分の家なのに、気楽にだらだらしたり、お風呂に入って着替えを忘れた時も裸でうろうろすることができない事や、目が合ったときに愛想笑いをいちいちしないといけないのはとても辛かったです。
実は、義母が引っ越しを決意する少し前から私は爆発寸前でした。本当に同居を解除して良かったと思っています。このままだと義母が嫌いになる一方でした。

同居生活を乗り越えたのだから、共働きの2人育児でパンク寸前でもなんとか乗り越えられるだろうと自信をくれた義母には感謝を伝えます。
これこそが同居して良かった一番のメリットですからね。

 

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